ドラマーの宮田繁男さんが逝去された。
亡くなられた日の昼間に連絡をもらったのだけれど、
なんだか全く信じられなかった。
昨日お別れのご挨拶に行ってきたけど、
それでもまだ信じられない。
悲しすぎて言葉が出てこないのだけれど、
宮田さんのことばかり考えてしまうので、
やっぱり何か記しておこうと思いました。
お礼の意味も込めて書いてはいるけど、
宮田さんに読んでもらえるわけではないから、
やっぱり自分のために書いているんでしょう、たぶん。
どこから書いたらよいのかしら。
御多分にもれず、学生の頃オリジナル・ラヴの1stアルバムに衝撃受けて、
宮田さんの大ファンになりました。
後に、なぜ1stは音があんなに太くて瑞々しいのか尋ねたことがあります。
宮田さんの記憶では、
アナログテープにコンプ無しで録ったからじゃないかなぁと言ってました。
本当に上手だってことです。
初めて直接お会いできたのは2000年頃、
Nona Reevesのアレンジで参加されたときです。
この時の宮田さんはもちろんドラムではなかったので、
一緒に演奏することもなく、
まぁ、それ以前に緊張してほとんど何も話せなかったなぁ。
好きなようにに弾かせてもらいました。
何か厳しいことをおっしゃってた記憶は全くない。
それから3、4年経った頃だと思うんですが、
ふと録音で呼ばれて行った現場でドラムが宮田さんだったんです。
その時の嬉しかったこと嬉しかったこと。
その後は徐々にでしたが、
宮田さんと一緒に呼んでもらえることが増えていきました。
本当にラッキーでした。
数日の間を置いて、知らずに行って会ったりすると、
ちょっとニヤニヤしながら、あ、どうもどうも、なんて。
そんなわけで、ライブをご一緒したのはほんの2、3回なのですが、
僕の宮田さんの記憶の多くは録音スタジオ。
ぱぱっとなんかできないよ、
バンドマンはじっくり時間かけて音楽作るんだよ、
と言っていたことがあります。
宮田さんはそんなふうに言いながらもぱぱっとやっていたけど、
肝に命じておきます。
宮田さんと録音した最初の1、2曲は
実は聞くのがちょっと恥ずかしい。
ベースが全然ついて行けてないの。
当時もそういう自覚はなんとなくあって、
録音が終わった後しばらく、宮田さんの録音物を随分聞き直しました。
でも注文を付けられたことは一度もなかったです。
もの凄く優しいのか、たいして気にしていなかったのか、
それはわかりません。
ここ数年の宮田さんとの録音を僕はとてもとても気に入っていて、
数年かかったけど、
なかなかな良いリズムセクションになれたのではないかなぁと思っているんです。
宮田さんも気に入ってくれてたかな?
きっと沢山のベーシストが同じように思っているかもしれないけど。
宮田さんはいつも、曲全体のアレンジや方向性について気にしていたし、
それに対してどんなアプローチでいくか丁寧に話していました。
そして何より好きな音楽への思いが演奏から溢れていました。
最後に会ったのは昨年10月頃の録音でした。
演奏はいつもと変わらず素晴らしいものでした。
集中力も凄かった。
宮田さんのグルーヴのおけがで自分のベースも良い感じに聞こえました。
その日はいつもいるアシスタントの子が止むに止まれぬ事情でおらず、
ひとりでの片付けはつらそうでした。
ベースは線を抜いて鞄に突っ込んで終了なので、
手伝いましょうか?と聞いたのですが、
自分の楽器くらい自分で片付けなきゃだめだ、と言って断られました。
今思うと自分自身に何か言い聞かせながら頑張ってたのかな。
でもやっぱり大変そうだったので、
手伝いましょうか?としつこく聞きました。
五回目くらいにやっと、
車に積むの一緒に頼むわ、
と言ってくれました。
シンバルスタンドがたくさん入ったケースを、
荷台の高さまで一緒に持ち上げたけど、とてもとても大変そうでした。
機材を車に積み終えたら雨がパラパラ降ってきて、
宮田さんは、ありがとうと言いながら、
車の中にあったビニール傘をくれました。
じゃまたと言って、笑って別れたような気がします。
もう宮田さんと一緒に録音できないというのが信じられない。
家で家族に宮田さんの話をする時、
僕は勝手に、繁男ちゃんがねー、と言っていました。
宮田さんはそのこと知りません。ごめんなさい。
探してみたら、2年前の録音時に撮らせてもらった宮田さんの写真がありました。
笑顔がとても素敵です。
バネのあるグルーヴ、
同時にとってもクセのあるハネ、これが格好良い。
これ宮田さんだ、としか思えない曲のど頭フィル。
ずっと大好きです。
沢山勉強させてもらいました。
本当にありがとうございました。
お疲れさまでした。
ご冥福をお祈りします。
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